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今よりも広い部屋

家が完成していざ住んでみ

いかん今はさすがに聞かなくなったが、かつては男子一生の仕事はまず自分の家を構えること、といわれたことがある。こうした言い方がいつ頃からのものかはよくわからない。しかし、持ち家政策の影響を受けて、わが国で持ち家が当たり前のごとく考えられたのは戦後といわれているが、これを見ていると一九四0年頃には家づくりが人生の楽しみの一つと考えられはじめていたことがわかる。
また、そうした家づくりにおいて「自分で自分の家を設計する、そこに、無限の楽しい世界があるのではありませんか」と、単に家を持つことだけではなく、自分だけの住まいを持てること、そのための設計という間取りづくりの行為こそ最大の楽しみであると、述べているそして、そうした行為を思う存分楽しむための道具こそ間取板ということになるのだ。しかも興味深いのは、長尾が間取りを考える行為を、家を構える主人だけの特権ではなく、「線の描けない、全くの素人にでも、女学校の生徒さん達」も楽しめると述べていることである。そこには、間取板を用いて間取りを考える行為を、施主の特権とするだけではなく、やがて持つことになる住まいを夢見ることを万人に求めようとする意図が垣間見えるしろうと
『建築問取自在』の中身長尾の間取板は、体裁が異なり、友人が持ち込んだモノとは異なっていたが、その使い方は、長尾の言葉から推し量れた。それでも、友人の持ち込んだモノが気になった。そして、数年が過ぎた頃ある古書店から送られてきたカタログを見て驚いた。『建築間取自在』なるものが紹介されていたからであるさっそく書店へ駆けつけた。古本として扱われているが、『建築間取自在』は厳密にいえば書籍ではなく、箱の中に住宅を構成する部品が納められている玩具のようなものだった。

工事がなされているかを監理する

表には、タイトルとともに出版元として発明文化研究会の名前が記載され、登録出願中という文字も見られる。発行年は一九二四大正一三年一月七日、定価は1円三0銭発売当時でも、安いものではない。そんなことを考えながら、箱の中のピースを見て安堵した。ようやく探しあぐねていたものに出会えたからだ。
あんどただ、正体が確認できたが、依然としてどのような目的でつくられたのかは不明だし、そもそも出版元の発明文化研究会については何もわからない。そこで、戦前期の建築系単行本の中で他に発明文化研究会が発行しているものがないかどうかを調べると、一冊だけ出てきた。『建築間取百図前編五拾図』である。発行は同じ一九二四年三月六日、先の『建築間取自在』の11カ月後の発行である。著者著作権者は東京市麴町区麴町に住む登内尚一で、定価1円五0銭。発売元の発明文化研究会の住所は登内のものと一致するから、登内が中心人物であったことは明らかだ。ただ、残念ながら、経歴は不明。
それでも、この本は発行の五ヵ月後にはもう四版が出版されているから、かなり注目されていたようだ。
さて、中身を見ると、その名の通り、住宅の間取り五0種を描いたカードがあり、それに建物の立面図九種の描かれたカードが付いている。立面図は住まいではなく店舗デザインは幾何学的形態を意識的に取り入れたもの。震災後に今和次郎率いるバラック装飾社の活躍で一時期流行したバラック建築風のデザインで、震災直後という発行時期を反映していることがよくわかる。
改めて、五0種の間取りを見ていくと、すべてが先に見た『建築間取自在』のピースを組み合わせてできているかのような表現がなされている。とりわけ、最初の八枚はカラー印刷で、まさに、友人が持ってきたピースをそのまま並べてできたような雰囲気がはっきりと感じられる図N’図3

一つ一つのピースはバラバラで単なる部品でしかなかったが、それが集まると、まるで生き物のように一つの姿を現わすことになるのだ。まるで、住まいは、ピースに描かれているように玄関「応接室台所」浴室便所そして畳敷きの部屋、といったものに分解され、それらの集積体として形成されているような感覚を持ってしまうのだ。

 

建築士事務所コンセプ

建築確認済証の交付をお願い家をつくれば帯に短

近代住宅史上の事件しおりところで、『建築間取百図』には、『建築之栞』と題する!
少し気になる一枚のパンフレットとどちらも文化建築研究所が作成したもので、このこの研究所の所在地五ページの小冊子も収められている。
は樋口組建築事務所の中である。
樋口組建築事務所とは樋口久五郎の興した建築設計施工会社のこと。樋口は、一八八一明治一四年、東京市麹町に大工の長男として生まれ、小学校を終えた後に大工の道に進み、父親の亡くなった!
九0五明治三八年、弱冠二五歳で家督相続し樋口組を興した。一九三0昭和五年当時の資料によれば、従業員は八名、大蔵省や復興局、東京市といった公共事業とともに民間商店や住宅など手広く事業を展開していたことが確認される。
こうした樋口組の手掛けた建築作品の中でもっとも注目されるのが、一九一三大正二年に上野の森の中で開催された文化村に出品した住宅である。この文化村とは、わが国の近代住宅史し忘れることのできない出来事で、この文化村の開催を契機に文化住宅という言葉が生まれ、1世を風靡することになる。いわば、樋口は、一九二0年代に流行する斬新でモダンな住宅の総称として用いられた文化住宅の生みの親の一人といえるのだ。
さて、一枚のパンフレットには、樋口が『建築間取自在』の発売に賛同し、住宅相談に応じようというメッセージが書かれている。そして、小冊子には、方が詳細にまとめられているかつ、希望者には無料で樋口の住宅に対する考え
和と洋をどう使い分けるのかでは、改めて『建築間取自在』なるものがなぜ考案されたのかを、樋口が出品した文化村を振り返りながら見てみよう。
文化村とは、一九一三年の四月から七月まで東京府が第一次世界大戦終結による世界平和の到来を記念して行なった平和記念東京博覧会の会場の中に設けられた実物住宅展示場のことである。今日、住宅を新しく構えようとすると、多くの人は駅前に仮設された住宅展示場を訪れ、とりあえず、外を眺め気に入った住宅があれば室内に入ってその雰囲気を確かめ、どのくらいの値段がするのかと歩いて回る本気になれば、そうした気に入った住宅に何度も通ってその良さを確かめることになる。

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それでも、この本は発行の五ヵ月後にはもう四版が出版されているから、かなり注目されていたようだ。
さて、中身を見ると、その名の通り、住宅の間取り五0種を描いたカードがあり、それに建物の立面図九種の描かれたカードが付いている。立面図は住まいではなく店舗デザインは幾何学的形態を意識的に取り入れたもの。震災後に今和次郎率いるバラック装飾社の活躍で一時期流行したバラック建築風のデザインで、震災直後という発行時期を反映していることがよくわかる。
改めて、五0種の間取りを見ていくと、すべてが先に見た『建築間取自在』のピースを組み合わせてできているかのような表現がなされている。とりわけ、最初の八枚はカラー印刷で、まさに、友人が持ってきたピースをそのまま並べてできたような雰囲気がはっきりと感じられる図N’図3

一つ一つのピースはバラバラで単なる部品でしかなかったが、それが集まると、まるで生き物のように一つの姿を現わすことになるのだ。まるで、住まいは、ピースに描かれているように玄関「応接室台所」浴室便所そして畳敷きの部屋、といったものに分解され、それらの集積体として形成されているような感覚を持ってしまうのだ。

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は樋口組建築事務所の中である。
樋口組建築事務所とは樋口久五郎の興した建築設計施工会社のこと。樋口は、一八八一明治一四年、東京市麹町に大工の長男として生まれ、小学校を終えた後に大工の道に進み、父親の亡くなった!
九0五明治三八年、弱冠二五歳で家督相続し樋口組を興した。一九三0昭和五年当時の資料によれば、従業員は八名、大蔵省や復興局、東京市といった公共事業とともに民間商店や住宅など手広く事業を展開していたことが確認される。
こうした樋口組の手掛けた建築作品の中でもっとも注目されるのが、一九一三大正二年に上野の森の中で開催された文化村に出品した住宅である。この文化村とは、わが国の近代住宅史し忘れることのできない出来事で、この文化村の開催を契機に文化住宅という言葉が生まれ、1世を風靡することになる。いわば、樋口は、一九二0年代に流行する斬新でモダンな住宅の総称として用いられた文化住宅の生みの親の一人といえるのだ。
さて、一枚のパンフレットには、樋口が『建築間取自在』の発売に賛同し、住宅相談に応じようというメッセージが書かれている。そして、小冊子には、方が詳細にまとめられているかつ、希望者には無料で樋口の住宅に対する考え
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