子供に対して質問をすることです

幼児が困ったと思っていることを言葉で表現しやすくする声かけをしてあげましょう

10ヶ月の赤ちゃんで同じ実験をすると、赤ちゃんは実験者の視線を追って実験者の視線の先を見ようとします。大人はこの「視線を追う」と言う行為を深く考える人は少ないでしょう。しかし、赤ちゃんが他人の視線を追う事は、人間にとって非常に重要な能力を習得する為に欠かせない行動なのです。当初赤ちゃんは、母親との間で「見る、見られる」と言う一対一の関係を築きます。こうした「自分」と「他者」だけの関係を「二項関係」と言います。二項関係では、母親が赤ちゃんから視線をそらして違う所を見ると、それは赤ちゃんにとっては慟皇の宝监Jの様に、そこで止まっていたら、その先に進めません。視線を追えなければ、人間が人間として生きる為に欠かせない「共通認識」を持つ事が出来ないからです。認識を共有できなければ、お互いに協力し合う事はできませんし、一緒に楽しむ事も出来ません。そして、共通認識を持つ事によって生まれる関係が、次に説明する「三項関係」なのです。関係の途絶になってしまいます。視線の理解を発展させた物が「指差し」赤ちゃんが母親の視線を追い、視線の先にある物を見る事が出来るようになると、同じ物を見てお互いに確認し合う事が出来る様になり、こうした「自分」と「他者」と「物や物事」で織り成す関係を「三項関係」と言います。

しつけにおける効果的な体験のさせ方について考える際にも

  • 育てるのに大切な役割を果します
  • 幼児の将来の姿あなたはお子さんに
  • 子どもは期待しているのそのような母親は


幼児の命を救うためには


一三歳のころにいたずらをすることのできなかった幼児は

そして、だんだんと友だちと遊ぶことを楽しむようになります。さらに、四歳から六歳の間は、友だちとグループを作って遊ぶ楽しみを十分に味わう時期ですこの時期に、友だちと十分に遊ぶ楽しみを味わうことのできない子どもは、すでに、人格形成にゆがみが起き始めているのではないかと考えてみなければなりません。そのままにしておきますと、小学校の二年生から四年生にかけてのギャングエイジも現れてこないでしょう。ギャングエイジというのは、子どもたちと徒党を組んで遊び回り、遠出をしたりいたずらをして遊び、しかもそのことを親や先生に内緒にしておくことを誓い合う年齢です。秘密結社を作るとさえいわれているほどですが、それによって友だちを作る能力が非常によく発達します。

幼児と一緒に読んで

そして、思春期になってから、いろいろな悩みを持つようになったときに、それを友だちとの間で解決し、それによって思春期の危機を乗り越えることができるのです四歳から六歳の間に、友だちと遊ぶ楽しさを味わうことのできなかった子どもには、ギャングエイジが現れませんので、友だち作りの能力が育ちません。だんだんに孤独になり、思春期にはそれが決定的になってしまいます。そして、いろいろな悩みが生じても、心を割って話をする友だちがいないために、悩みは深刻になるばかりです。このような子どもは、登校拒否になったり、ノイローゼになったり、ときには自殺を企てることさえもあるのです。ですから、四歳から六歳の間に、友だち作りの能力を養っておくことは、絶対に必要ですもし友だちと積極的に遊ぶことをしない子どもがいれば、その原因を探って、それを取り除くことをしなければなりません。


幼児は多くを学びます

教育というものです

親の願いはほとんど同じですよね。「心はどこにあるか?」という疑問については、古代よりたくさんの学者たちが考えてきましたが、私たち医者や科学者は「心は脳にある」と申し上げます。脳の観点から見ると、バランスの良い脳を作ることで、自らバランスのとれる心も育つからです。そのようにうまく作られた脳の最も大事な働きは、何かあっても「まあ、いいか」「大丈夫」と思える、私は、子どもが乳幼児期のうちにこの心さえ育てば、脳育てのほとんどは成功、とまで考えています。前向きで柔軟な心です。人生は決して楽しいこと、うまくいくことばかりではありません。


子どもを苦しめるばかりです

とくに嫌なことが起こったときに古い脳の不安や恐怖、衝動性ばかりが起こってしまう脳では、その嫌なことが何倍にも増幅されてしまいます。嫌なことも、でしょうか。新しい脳に伝わり、状況に応じた判断を行って、いいか、仕方ないな」「大丈夫だよねと思える心を作り上げることで、なんとか人間は社会で生き続けていけるのではな乳幼児期にこの心がうまく働く脳を子どもに作り上げられないと、バランスが崩れた脳になり、思わぬ時期に「心や体の具合」として現れてしまうことがあります。そんな例をいくつか見てみましょう。感情のコントロールも脳の働き8歳のAちゃんは、両眼とも1.2だった視力が突然落ちました。「黒板が見えない」と言うのです。