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住まいの基本は食う寝る遊ぶ

これぞ近代の建築

磯崎新『建築のパフォーマンス』パルコ出版ポストモダンとは、近代モダン)以後(ポストを意味する。一般的には、モダニズムが過去の歴史を否定し、全世界に同じような建築を普及させる運動だったとすれば、ポストモダンは再び歴史性や場所性を導入して、多様な建築文化をつくろうとするものだ。そこで引用の問題をとりあげたい。
かっこ引用とは、どこか別の場所から何かを引っぱってくる行為である。文章ならば、括弧に入れて、引用箇所を明快にするだろう。こんな風に。ポストモダンの建築家、磯崎新は、自作のつくばセンタービル(83)を説明しながら、「クロード·ニコラ·ルドゥー一八世紀のフランスの建築家の鋸状柱を思わせるポルティコが現れたのは、私個人のオブセッションである」と書いている。また、このコラムの冒頭は、磯崎の引用論の一部を引用したものだ。つくばセンタービルは、引用のかたまりのような建築として有名である。例えば、ルドゥーの柱、ローマのカンピドリオ広場、ギリシア神話の一場面、マリリン·モンローのボディラインの曲線など、いろいろな要素が集合した。括弧の建築であるのこぎり
現代美術の場合、アンディ·ウォーホールがマリリン·モンローの肖像を複製して、シルクスクリーンでポップ·アートを制作した。磯崎は彼からも影響を受けている。また現代の音楽や映像だと、サンプリングと呼ばれる手法で、他の作品の引用を行う。
もっとも、建築における引用は、昔からなかったわけではない。ルネサンスの建築家は、当時からみて、1000年以上も昔の古代ローマの古典主義をリバイバルさせている。例えば、アルベルティが設計したサンタンドレア教会1470は、ファサードに凱旋門のモチーフを引用した。これは思いきった手段である。なぜなら、キリスト教の建築が、皇帝をたたえる非キリスト教の文明を直接的に参照しているからだ。しかし、ルネサンスはそれほど古代ローマの建築に憧れていた。ここがポストモダンと違う部分でもある。
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不動産価格が下降傾向であれば

>不動産価格が下降傾向であればつまり、ルネサンスは権威づけるために正統とされた古典主義を引用したのに対しポストモダンはむしろ権威を解体するために、個人の趣味にまかせて、好き勝手な引用を実行する。
こうした引用ならば、ディズニーランドの方が建築家を先駆けていた。テーマパークは世界の縮図であり、それを表現するためにも各地の建築様式を寄せ集めるからである。例えば、一九六0年代に登場したイッツ·ア·スモール·ワールドというアトラクションでは、文字通り、船に乗って小さな世界を旅行する疑似体験を味わう。そのファサードは、パリのエッフェル塔、ロンドンのビッグベン、ギリシアの神殿、イタリアのピサの斜塔、インドのタージ·マハル、東洋のパゴダなど、有名な建築が書き割りのように並ぶ。だが、つくばセンタービルの本格的な引用とも違う。ディズニーでは、わかりやすいようにそれぞれの建築を誇張しており、形態を簡略化させているからだ。すなわち、建築を記号のような存在に変えている
くまけんご東京·世田谷にあった自動車メーカー·マツダのショールーム、隈研吾のM2(は、東京のバブル期を象徴する典型的なポストモダンの建築である現在は葬儀用のホールになっている。ロシア·アヴァンギャルドや古典主義を散りばめているが、最も目立つのは、中央に高くそびえる肥大化したイオニア式の円柱だ。これは柱なのに何も支えない。内部はエレベーターのホールで、吹き抜けである。かたちだけを引用し、機能が変わっているのだ。彼は建築家という主体を消していくために、こうしたデザインを試みたという。最後に彼の説明を引用しよう。
つくりながら自分という存在がすごく分裂している感じがしました。その分裂は、消すという話とからんできます。自分の内面の表現というのは、気持ち悪いし嫌だと思っていた。……最初はカオスみたいなものをつくった。カオスってある意味では作家という主体が無い。いろんな要素をゴチャゴチャに集めてくるわけだから。つまり主体はないけれど、にもかかわらず強度があるものをつくろうという思いがあった。隈研吾『隈研吾読本』<ADAEDITATokyo
アメリカ合衆国の名建築を旅する
クリスタル·カテドラル-ロサンゼルスロサンゼルスの旅行はクルマがないときつい。
ダウンタウンをまわるだけなら、ダッシュという格安のミニバスを使えば、なんとかなる。ここは、いわゆる白人ばかりの街ではない。


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家族の体調にまで影響してしまい

住宅の実績は比較的少ない人種の坩堝と化し、SF映画『ブレードランナー』の舞台になったことも納得できる。酸性雨のしたたるなか、ハリソン·フォードが決闘を行う印象的な建物、ブラドベリービルも存在するが、実物は修復され、陽光を浴びて意外にあっけらかんとしていた。しかし、見るべき建築は、むしろ広大に広がる郊外に点在している。地下鉄はないわけではないが、東京やパリのような網の目のネットワークをもたない。動こうとすると、ロサンゼルスがクルマの都市であることを痛感させられるるつぼ幸い、日本美術史研究者の白井陽子さんというロサンゼルス在住の知り合いがいて、運転をお願いすることになった。こちらは建築ガイドを片手に、行きたい場所を告げる。例えば、中南米のマヤの建築様式を採用した映画館や、客船をイメージした流線形デザインのコカ·コーラ工場など、一九二0S三0年代の建築だ。しかし、現地に住んでいても、彼女の行ったことがないエリアも含まれており、幾つかは危険だから立ち寄りたくないという。確かに、アメリカでは、弛緩した日本の都市とは違い、そうした雰囲気を肌で感じることがある。
しかん海沿いのサンタモニカには、アメリカのスーパースター建築家、フランク·ゲーリーの自邸や事務所がある。年末年始の休暇で、いずれも空っぽのようだった。自邸は七八年以降、数期に分けて、古い家屋を増改築した作品である。事務所もセンスのいいリノベーションだ。彼は、金網、波形鉄板、角材などで、バリケードを構築するかのように、住宅を包む。しかも左右対称の軸線や幾何学的な明晰さがなく、ばらばらの造形。外観は家に見えず、平穏な住宅街において異様な存在感を示す。だが、安価でジャンクな素材を使い、過激なデザインを行うサブカルチャー的な建築は、ロサンゼルスによく似合う。
ロサンゼルスの郊外、ディズニーランドの手前に、フィリップ·ジョンソンの手がけたクリスタル。
カテドラル(80)がある。
色んな経験に向き合え

リフォームのご要望の磯崎新『建築のパフォーマンス』パルコ出版ポストモダンとは、近代モダン)以後(ポストを意味する。一般的には、モダニズムが過去の歴史を否定し、全世界に同じような建築を普及させる運動だったとすれば、ポストモダンは再び歴史性や場所性を導入して、多様な建築文化をつくろうとするものだ。そこで引用の問題をとりあげたい。
かっこ引用とは、どこか別の場所から何かを引っぱってくる行為である。文章ならば、括弧に入れて、引用箇所を明快にするだろう。こんな風に。ポストモダンの建築家、磯崎新は、自作のつくばセンタービル(83)を説明しながら、「クロード·ニコラ·ルドゥー一八世紀のフランスの建築家の鋸状柱を思わせるポルティコが現れたのは、私個人のオブセッションである」と書いている。また、このコラムの冒頭は、磯崎の引用論の一部を引用したものだ。つくばセンタービルは、引用のかたまりのような建築として有名である。例えば、ルドゥーの柱、ローマのカンピドリオ広場、ギリシア神話の一場面、マリリン·モンローのボディラインの曲線など、いろいろな要素が集合した。括弧の建築であるのこぎり
現代美術の場合、アンディ·ウォーホールがマリリン·モンローの肖像を複製して、シルクスクリーンでポップ·アートを制作した。磯崎は彼からも影響を受けている。また現代の音楽や映像だと、サンプリングと呼ばれる手法で、他の作品の引用を行う。
もっとも、建築における引用は、昔からなかったわけではない。ルネサンスの建築家は、当時からみて、1000年以上も昔の古代ローマの古典主義をリバイバルさせている。例えば、アルベルティが設計したサンタンドレア教会1470は、ファサードに凱旋門のモチーフを引用した。これは思いきった手段である。なぜなら、キリスト教の建築が、皇帝をたたえる非キリスト教の文明を直接的に参照しているからだ。しかし、ルネサンスはそれほど古代ローマの建築に憧れていた。ここがポストモダンと違う部分でもある。


これぞ近代の建築

つまり、ルネサンスは権威づけるために正統とされた古典主義を引用したのに対しポストモダンはむしろ権威を解体するために、個人の趣味にまかせて、好き勝手な引用を実行する。
こうした引用ならば、ディズニーランドの方が建築家を先駆けていた。テーマパークは世界の縮図であり、それを表現するためにも各地の建築様式を寄せ集めるからである。例えば、一九六0年代に登場したイッツ·ア·スモール·ワールドというアトラクションでは、文字通り、船に乗って小さな世界を旅行する疑似体験を味わう。そのファサードは、パリのエッフェル塔、ロンドンのビッグベン、ギリシアの神殿、イタリアのピサの斜塔、インドのタージ·マハル、東洋のパゴダなど、有名な建築が書き割りのように並ぶ。だが、つくばセンタービルの本格的な引用とも違う。ディズニーでは、わかりやすいようにそれぞれの建築を誇張しており、形態を簡略化させているからだ。すなわち、建築を記号のような存在に変えている
くまけんご東京·世田谷にあった自動車メーカー·マツダのショールーム、隈研吾のM2(は、東京のバブル期を象徴する典型的なポストモダンの建築である現在は葬儀用のホールになっている。ロシア·アヴァンギャルドや古典主義を散りばめているが、最も目立つのは、中央に高くそびえる肥大化したイオニア式の円柱だ。これは柱なのに何も支えない。内部はエレベーターのホールで、吹き抜けである。かたちだけを引用し、機能が変わっているのだ。彼は建築家という主体を消していくために、こうしたデザインを試みたという。最後に彼の説明を引用しよう。
つくりながら自分という存在がすごく分裂している感じがしました。その分裂は、消すという話とからんできます。自分の内面の表現というのは、気持ち悪いし嫌だと思っていた。……最初はカオスみたいなものをつくった。カオスってある意味では作家という主体が無い。いろんな要素をゴチャゴチャに集めてくるわけだから。つまり主体はないけれど、にもかかわらず強度があるものをつくろうという思いがあった。隈研吾『隈研吾読本』<ADAEDITATokyo
アメリカ合衆国の名建築を旅する
クリスタル·カテドラル-ロサンゼルスロサンゼルスの旅行はクルマがないときつい。
ダウンタウンをまわるだけなら、ダッシュという格安のミニバスを使えば、なんとかなる。ここは、いわゆる白人ばかりの街ではない。
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住宅の実績は比較的少ない

これぞ近代の建築人種の坩堝と化し、SF映画『ブレードランナー』の舞台になったことも納得できる。酸性雨のしたたるなか、ハリソン·フォードが決闘を行う印象的な建物、ブラドベリービルも存在するが、実物は修復され、陽光を浴びて意外にあっけらかんとしていた。しかし、見るべき建築は、むしろ広大に広がる郊外に点在している。地下鉄はないわけではないが、東京やパリのような網の目のネットワークをもたない。動こうとすると、ロサンゼルスがクルマの都市であることを痛感させられるるつぼ幸い、日本美術史研究者の白井陽子さんというロサンゼルス在住の知り合いがいて、運転をお願いすることになった。こちらは建築ガイドを片手に、行きたい場所を告げる。例えば、中南米のマヤの建築様式を採用した映画館や、客船をイメージした流線形デザインのコカ·コーラ工場など、一九二0S三0年代の建築だ。しかし、現地に住んでいても、彼女の行ったことがないエリアも含まれており、幾つかは危険だから立ち寄りたくないという。確かに、アメリカでは、弛緩した日本の都市とは違い、そうした雰囲気を肌で感じることがある。
しかん海沿いのサンタモニカには、アメリカのスーパースター建築家、フランク·ゲーリーの自邸や事務所がある。年末年始の休暇で、いずれも空っぽのようだった。自邸は七八年以降、数期に分けて、古い家屋を増改築した作品である。事務所もセンスのいいリノベーションだ。彼は、金網、波形鉄板、角材などで、バリケードを構築するかのように、住宅を包む。しかも左右対称の軸線や幾何学的な明晰さがなく、ばらばらの造形。外観は家に見えず、平穏な住宅街において異様な存在感を示す。だが、安価でジャンクな素材を使い、過激なデザインを行うサブカルチャー的な建築は、ロサンゼルスによく似合う。
ロサンゼルスの郊外、ディズニーランドの手前に、フィリップ·ジョンソンの手がけたクリスタル。
カテドラル(80)がある。