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建築そのものが興味深い

建築費を抑えようとする訳

一方、こうした伝統的な玄関は、大正期へと移行する一九10年頃から次第にその姿を変え始めるこの一九一0年代はわが国の住宅が大きくその姿を変え始めた時期である。玄関も例外ではなかった。
玄関は、まさに前近代的な格式性を示す象徴的な場と見られたのである。具体的には、玄関と内玄関の使い分けが批判された。身分制度がそのまま残されているように思われたのである。そのため、玄関は出入り口として家族はもちろん客や使用人までも含めて誰でもが使用できる場とすることが主張されまた、大きな玄関から小さな格式を捨て去った玄関に改めることが主張された。
そうした中で玄関の名称を使うことも批判され、出入り口という機能を直接示す言葉を用いることが提唱されたりもした。また、伝統的な住まいの持つ開放的な性格が批判されるなかで、外部に対しての戸締りが重視された。そのため、玄関の戸締りが重視され、それに伴いそれまでの取り外しのできる引き違いの建具から、頑丈な鍵のかけられる扉に改めることが主張されたのである
ベランダに靴を置け明治の終わりから大正期にかけて、すなわち、一九一0年代以降、わが国では都市中間層の人々の住まいとして中小規模の西洋館が建設され始める。それらの多くは、アメリカ住宅をモデルとしたもので特に、バンガロー様式と称されるベランダを持つ住宅が流行した。このバンガロー様式は、アメリカでも一九00年前後から庶民的住宅として流行したもので、独立した玄関の場はなく、道路に向けて設けられたベランダから入る。
かつて、一九一0明治四三年に東京に建設されたバンガロー様式の住宅を調査のために訪れたことがある。ベランダは、当然地面より高い位置にある。そして、そこにドアがあり、室内に入るのだが靴をどこで脱げばよいのかわからない。そもそもベランダ部分が靴のままでいいのかも不安だった。ドアをノックして訪ねたら、ベランダに靴を置けと言われた。
不動産業者がプロジェクトごとの契約をする

靴を脱いで、ベランダに並べてドアを開けると、すぐホールが広がり二階への階段もそこにあった。
これにみられるように、こうした海外に影響を強く受けた住宅には玄関らしき設備がなく、日本人にとっては靴をどうしたらいいのかとてもわかりづらい。現在でもそうだが、こうした海外直輸入型の住宅が日本に建てられ始めると、最初に手が入れられるのが玄関部分で、室内に靴脱ぎ用の土間を設けることになる。そして、玄関が終われば、次は、風呂場や便所が直される。日本風に改良されるのだ。
さて、現存する最古の洋風住宅は、長崎にある幕末から明治期にかけて政商の名を独り占めにしたイギリス人·グラバーの自邸である。ただ、残念ながら、この建物は増築を重ね、創建時の姿とは大きく異なっており、玄関の様子も変わっている。
これに続くのは一八六五慶応元年竣工のオルト邸で、木骨の石造建築であり、ベランダにはトスカナ風柱頭の列柱が配されるなど、グラバー邸と比べより本格的な洋館といえる図7、図8。正面のポーチは建築後に付加されているが、現存する当初の図面のホール部分にEntranceHallとあり、玄関であったことがわかる。この図面は、洋館の間取りを描いたもっとも古いものひとつである。
扉は11枚で内開きに描かれている。まさに、扉を開いてそのまま室内に入るのだ。ただ、そのホールは周囲のベランダと同じ高さで、靴脱ぎ用の土間に相当する部分はない。

しょうへいまた、鹿児島紡績所技師館は、薩摩藩が紡績所の操業指導のために招聘したイギリス人技師の宿舎として一八六七慶応三年に建てられた。この建物は、周囲にベランダが回り、その一角に多角形状のポーチがあり、そこからそのまま中廊下へと続いて室内に入っていけるつくりだ。ポーチが玄関で、玄関と廊下が一体となったタイプと考えるべきだろう。一見すると、このポーチで靴を脱いだようにも見えるが、招聘された技師たちは靴のままストレートに中に入ったと思われる。このように、わが国に建てられ最初期の洋館の室内の床はすべて同一のレベルで、室内には日本のような土間は存在しないのだ。

一條公爵邸、岩崎久弥邸の玄関一方、興味深い事例として京都にある同志社大学創立者である新島襄1843-1890の旧宅がある。

家を建てるから家ではなくオンリーワン


住宅を研究していた一

建物の形式は先に見た鹿児島紡績所技師館と同様に周囲にベランダがある。母屋に雁行状に台所や物置·浴室などの付属家が付いている。玄関は、母屋と接する付属家の一部に設けられている注目されるのは、そこが土間で、かつ、二階への階段も設けられていることである図10。玄関横の応接室は暖炉があり、椅子が置かれていたし、二階の居室にはベッドも置かれるなど、起居様式は椅子座であった。しかし、新島は靴を脱いで生活していたようで、当然ながら玄関の土間で靴の着脱を行なっていたようだ。

また、明治二0年代の一八九0年代に入ると、上流層の人々の住まいは伝統的な住まい<和館>と西洋風の住まい<洋館>の両方をつがいで並べること!
テータス·シンボルのように流行した。そのような洋館のひとつである、一八九一明治二四年竣工の一條公爵邸では、タイル張りの土間付の玄関が設けられている図11。こうしたつくりは一八九六明治二九年竣工で現存するジョサイヤ·コンドル1852-1920設計の岩崎久弥邸洋館にも共通している図12。おそらく、一八九0年代の洋館の多くには土間付き玄関が既に用意されていたようだ。
ただ、こうした土間で靴を脱いだのかといえば、答えはノー。形式は日本風になったが、使い方はまだ日本風にはなっておらず、大切な客は靴のまま中に通したという。
和洋館並列型住宅と称している-カス
予想もつかない間取り一方、明治の終わりの一九一0年代になると、上流層の住まいにも変化が起こる。今までの和洋館並列型住宅では、日常生活が和館で、接客行為は洋館で、それぞれ行なわれていたが、生活の洋風化に伴い日常生活が洋館へと徐々に移行する現象が起こり始めた。それは、まさに住まいのあり方を変える動きであった。
こうした動きの中で出現するのが、それまでの和館部分を和室に姿を変えて洋館の中に取り込んだ形式の住まいである。私は、こうした形式を勝手に洋館単独和室吸収型住宅と呼んでいるが、この形式の実例のひとつが、一九一一明治四四年に竣工した愛知県半田市に現存する中埜邸である。外観はイギリス風の色濃い洋館であるが、間取りを見ると二階には続き間の畳敷きの部屋があり、外観からはその内部は予想外の間取りといえるかもしれない図13。玄関は、二階への階段のある大きな暖炉付きの広間に取って付けたような土間付き玄関である
ただ、こうした和室を吸収した住宅の場合、土間は形式的なものではなく、靴を脱いだと考えられる。
家づくりがしたい

工務店さんが宅地建物取引業者でない場合

一方、こうした伝統的な玄関は、大正期へと移行する一九10年頃から次第にその姿を変え始めるこの一九一0年代はわが国の住宅が大きくその姿を変え始めた時期である。玄関も例外ではなかった。
玄関は、まさに前近代的な格式性を示す象徴的な場と見られたのである。具体的には、玄関と内玄関の使い分けが批判された。身分制度がそのまま残されているように思われたのである。そのため、玄関は出入り口として家族はもちろん客や使用人までも含めて誰でもが使用できる場とすることが主張されまた、大きな玄関から小さな格式を捨て去った玄関に改めることが主張された。
そうした中で玄関の名称を使うことも批判され、出入り口という機能を直接示す言葉を用いることが提唱されたりもした。また、伝統的な住まいの持つ開放的な性格が批判されるなかで、外部に対しての戸締りが重視された。そのため、玄関の戸締りが重視され、それに伴いそれまでの取り外しのできる引き違いの建具から、頑丈な鍵のかけられる扉に改めることが主張されたのである
ベランダに靴を置け明治の終わりから大正期にかけて、すなわち、一九一0年代以降、わが国では都市中間層の人々の住まいとして中小規模の西洋館が建設され始める。それらの多くは、アメリカ住宅をモデルとしたもので特に、バンガロー様式と称されるベランダを持つ住宅が流行した。このバンガロー様式は、アメリカでも一九00年前後から庶民的住宅として流行したもので、独立した玄関の場はなく、道路に向けて設けられたベランダから入る。
かつて、一九一0明治四三年に東京に建設されたバンガロー様式の住宅を調査のために訪れたことがある。ベランダは、当然地面より高い位置にある。そして、そこにドアがあり、室内に入るのだが靴をどこで脱げばよいのかわからない。そもそもベランダ部分が靴のままでいいのかも不安だった。ドアをノックして訪ねたら、ベランダに靴を置けと言われた。


建築費を抑えようとする訳

住宅を研究していた一

靴を脱いで、ベランダに並べてドアを開けると、すぐホールが広がり二階への階段もそこにあった。
これにみられるように、こうした海外に影響を強く受けた住宅には玄関らしき設備がなく、日本人にとっては靴をどうしたらいいのかとてもわかりづらい。現在でもそうだが、こうした海外直輸入型の住宅が日本に建てられ始めると、最初に手が入れられるのが玄関部分で、室内に靴脱ぎ用の土間を設けることになる。そして、玄関が終われば、次は、風呂場や便所が直される。日本風に改良されるのだ。
さて、現存する最古の洋風住宅は、長崎にある幕末から明治期にかけて政商の名を独り占めにしたイギリス人·グラバーの自邸である。ただ、残念ながら、この建物は増築を重ね、創建時の姿とは大きく異なっており、玄関の様子も変わっている。
これに続くのは一八六五慶応元年竣工のオルト邸で、木骨の石造建築であり、ベランダにはトスカナ風柱頭の列柱が配されるなど、グラバー邸と比べより本格的な洋館といえる図7、図8。正面のポーチは建築後に付加されているが、現存する当初の図面のホール部分にEntranceHallとあり、玄関であったことがわかる。この図面は、洋館の間取りを描いたもっとも古いものひとつである。
扉は11枚で内開きに描かれている。まさに、扉を開いてそのまま室内に入るのだ。ただ、そのホールは周囲のベランダと同じ高さで、靴脱ぎ用の土間に相当する部分はない。

しょうへいまた、鹿児島紡績所技師館は、薩摩藩が紡績所の操業指導のために招聘したイギリス人技師の宿舎として一八六七慶応三年に建てられた。この建物は、周囲にベランダが回り、その一角に多角形状のポーチがあり、そこからそのまま中廊下へと続いて室内に入っていけるつくりだ。ポーチが玄関で、玄関と廊下が一体となったタイプと考えるべきだろう。一見すると、このポーチで靴を脱いだようにも見えるが、招聘された技師たちは靴のままストレートに中に入ったと思われる。このように、わが国に建てられ最初期の洋館の室内の床はすべて同一のレベルで、室内には日本のような土間は存在しないのだ。

一條公爵邸、岩崎久弥邸の玄関一方、興味深い事例として京都にある同志社大学創立者である新島襄1843-1890の旧宅がある。
今よりも広い部屋

工事日の設定について


マンションでも借りて

建物の形式は先に見た鹿児島紡績所技師館と同様に周囲にベランダがある。母屋に雁行状に台所や物置·浴室などの付属家が付いている。玄関は、母屋と接する付属家の一部に設けられている注目されるのは、そこが土間で、かつ、二階への階段も設けられていることである図10。玄関横の応接室は暖炉があり、椅子が置かれていたし、二階の居室にはベッドも置かれるなど、起居様式は椅子座であった。しかし、新島は靴を脱いで生活していたようで、当然ながら玄関の土間で靴の着脱を行なっていたようだ。

また、明治二0年代の一八九0年代に入ると、上流層の人々の住まいは伝統的な住まい<和館>と西洋風の住まい<洋館>の両方をつがいで並べること!
テータス·シンボルのように流行した。そのような洋館のひとつである、一八九一明治二四年竣工の一條公爵邸では、タイル張りの土間付の玄関が設けられている図11。こうしたつくりは一八九六明治二九年竣工で現存するジョサイヤ·コンドル1852-1920設計の岩崎久弥邸洋館にも共通している図12。おそらく、一八九0年代の洋館の多くには土間付き玄関が既に用意されていたようだ。
ただ、こうした土間で靴を脱いだのかといえば、答えはノー。形式は日本風になったが、使い方はまだ日本風にはなっておらず、大切な客は靴のまま中に通したという。
和洋館並列型住宅と称している-カス
予想もつかない間取り一方、明治の終わりの一九一0年代になると、上流層の住まいにも変化が起こる。今までの和洋館並列型住宅では、日常生活が和館で、接客行為は洋館で、それぞれ行なわれていたが、生活の洋風化に伴い日常生活が洋館へと徐々に移行する現象が起こり始めた。それは、まさに住まいのあり方を変える動きであった。
こうした動きの中で出現するのが、それまでの和館部分を和室に姿を変えて洋館の中に取り込んだ形式の住まいである。私は、こうした形式を勝手に洋館単独和室吸収型住宅と呼んでいるが、この形式の実例のひとつが、一九一一明治四四年に竣工した愛知県半田市に現存する中埜邸である。外観はイギリス風の色濃い洋館であるが、間取りを見ると二階には続き間の畳敷きの部屋があり、外観からはその内部は予想外の間取りといえるかもしれない図13。玄関は、二階への階段のある大きな暖炉付きの広間に取って付けたような土間付き玄関である
ただ、こうした和室を吸収した住宅の場合、土間は形式的なものではなく、靴を脱いだと考えられる。

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